ご案内

螺旋階段で上がると、そこが二階だ。

その下には、バスルームや小さなキッチンが収まっている。 二階は、北側が大きな窓。
ほかの面は手摺りに囲まれ、吹き抜けの広い室内が見下ろせる。 そういう展望台のような場所なので、壁というものがない。
したがって、部屋という感じが全然しないから、私はそこには、滅多に上がらなかった。 最初から、この二階には椅子が置かれていた。
私は、最初にここへ来たときと、あと、人に見せるために、二度ほどそこに上がったことがあった。 しかし、自分一人だけのときは、そんな場所に上がる理由も意味もないから、これまで上がる機会はなかった。
ところが、ふと思い立って、螺旋階段を久しぶりに上ってみた。 一階も北側は一面が窓だから、すっかり冬景色になった森林が見える。
もう少し高い位置から眺めてみたくなったので、二階へ上がったのだった。 葉が落ちたこともあって、枝の問から遠くまで見えるようになった。
といっても、結局は、どこまでも樹が続いているだけだ。 土地は先へ行くほど下っているため、さらに向こうにある山もよく見える。
人家などは一軒も見当たらない。 人工物といえば、送電線の鉄塔がずいぶん遠くにあるだけだった。

まあ、特にどうということのない景色ではあるけれど、私はしばらくぼんやりと眺めていた。 普段はこんな暇はない。
だいいち、帰ってきたらもう真っ暗なので、窓の外はなにも見えないのだ。 大きな鏡があるのと同じである。
カーテンもないから、誰かがこっそり近くへやってきたら、部屋の中が丸見えだな、とは考えたけれど、カーテンを買いにいくのも億劫だし、窓の面積が尋常ではないので、どうもその気になれなかった。 外はない、と思えば良い。
つまり、私にとっては、ここは地下室と同じなのである。 今日は店の定休日なので、朝もゆっくり起きて、食パンを焼いて食べたところだった。
窓の外を眺めることに厭きたので、視線を室内に向ける。 左手の奥のコーナーに、私の矩健と生活用品が集中していた。
全体の面積の三パーセントくらいしか有効利用されていないことが明らかだ。 いかにも徒しい感じだし、またその不活性さこそ、私の生活そのもののようにも思えた。
かといって、そんな状況が私は嫌いではない。 こんなことでは駄目だ、もっとジョギングして鉢を鍛えなければ、という方向へは全然考えない。
今のこぢんまりとまとまりのある安泰が、私の好みであり、現在の状態で大きな不満というものもないのである。 部屋の左半分だけでも、まだまだスペースが余っているけれど、右側にも同じだけの面積ががらんと空いている。
そちらには、二つのものが置かれていた。 どちらも、私の生活用品は、コンクリートで作られたオブジェだ。

丸くて、真ん中に穴が開いている。 古代のお金のつもりらしいが、まったノ、史実には即していない。
これを作ったのはSさんという女性で、友人のYさんと二人で、数週間ここで生活していたことがある。 Sさんは芸術家で、部屋を出ていったあと、私に対するお礼に、とそれを持ってきたのだ。
彼女たちはいつも一緒で、そのときも、二人でそのコンクリートのお金を運び入れた。 「まあ、特に何の役に立つというわけでもないけどね」Yさんが率直な意見を言った。
だったら、持ってこないでほしいものである。 「はあ、そうでしょうね」私も精一杯素直に言葉を返した。
「でも、これ見ると、元気が出ない?」「さあ、どうでしょう。 試してみます」。
あとで、私も持ち上げようとしてみたが、一人で持ち歩くことは無理だった。 それくらいの元気も私には不足していたようだ。
転がして移動させる以外にない。 もう一つは、エレキギターとそのアンプである。

これは、Tさんという人が持ち込んだものだ。 つい三日ほどまえの夜に、宅配便で届いた。
いらなくなったからプレゼントするよ、という電話はその直後にかかってきた。 「買ったら、けっこうするもんだよ」とTさんは言う。
「はあ」「まあ、そのうち、また時間が取れたら、指導にいってやるから」「はい、ありがとうございます」という感じで私のものになった。 いちおう、荷ほどきはして、電源も入れてみた。
弦も弾いてみた。 だが、この世のものとは思えないもの凄い音がしたので、すぐにスイッチを切った。
それ以来、そのままである。 そんな室内の風景を眺めていて、ふと別のことに気づいた。
なんとなく、そこが寒くなかった。 「あれ?」と私は一人で咳いてしまった。
普段よりもずいぶん暖かいのだ。 そうか、二階だからか。

暖かい空気は比重が軽くなっています。 「そうですか。
でも、私はギターなんか弾けませんので…」「弾けるって、誰だって弦を弾くだけなんだから」「まあ、そうかもしれませんが、でも、あの、どうして、その」「いやいや、そんな寂しいところにいたらさ、ギターの一つも奏でたくなるんじゃないかなって」たのだ。 まった。
おお、なかなか良い。 人生も捨てたものではないな。
感慨に耽りながら、さて、今日は何をしようか、と思いを巡らす。 寒くなってきたから、もう少し温かいジャケットでも買いにいこうか。
近所にショッピングセンターができたばかりだが、どうせまだ混んでいるだろうな。 駐車場だって空いているスペースを探すのが大変だ、まあ、窓の下にちゃんとコンセントがある。
矩健を再びセットし、私はそこに座って窓の外を眺めた。 いところへ上がってしまう。
天井が高いためにこうなるのか。 すると、一階のあの北側のコーナという、一番寒い位置で私は今まで暮らしていたのか。
ときには高い位置から見てみなければ気づかないことがあるものだ。 私はさっそく引越をすることにした。

そう、引越というのは、このことだ。 同じ家の中で家具を移動させただけではあるけれど、それでも、私にとっては立派な引越だった。
一番大きな荷物は矩健だが、もちろん、分解ができるので、大したことはない。 これらを螺旋階段ですべて二階へ運び上げたのだ。
なんのことはない、やれば早い。 だいたい三分くらいで終わってしまった。
数日後の日曜日、午前中に年輩の男性が店に入ってきた。 ちょうど、G・K社長とSさんが、近所へ出かけていったところで、店には私一人だった。
その人は、名前をIさんといい、会社を定年になって、新しい事業を始めようとしている、そのために物件を探しているのだ、それよりは、せっかくの休みなのだから、ゆっくりと昼寝をする方が賢いのではないか。 などと考えつつ、既にクッションに頭をのせ、鉢は横倒しになっているのだった。
定年になったということは、六十歳くらいなのだろう。 頭にはもうほとんど毛が残っていない。
ハンチングの帽子を被っていたが、それを脱いだのでわかった。 小柄で少し太っている。
標準語でしゃべっても、発音が特徴的だった。 できるだけ広い場所が良い、とIさんは言う。
どれくらいの広さが必要なのですか、と尋ねても、広ければ広いほど良い、と言われてしまうので、これには困った。 「では、具体的な予算をおききした方が良いでしょうか?」。

私は別の方向から質問をする。 当たり前だ。
そんなこと、言われなくてもわかっている。

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